tetsunosukeのnotebook

tetsunosukeのメモです

生を意識した2013年1月

自分にとって生を意識する出来事がこの一週間の間に2つも起きたので、思ったことをそのまま記しておきます。

実家にて

もともとこのことを書こうと思っていたのだけど。

父方の祖父から実家宛に年賀状。今年で祖父は90になる。そこには、今年で年賀状は終わりにするから、という旨のことが書かれていた。我が家だけではなく、すべての人に対してである。

別件で祖父が活動していた絵画サークルがあり、そこの活動についての手紙が届いており、その中には、「絵画サークルのメンバーも徐々に他界しており、もうこのサークルも終わりにしようと思っていた。だけど新しい人が参加したいと言ってきたのでまだ続けることにするよ」という旨の内容。

節々に「オレももう長くないのだから」ということが書かれていた手紙と年賀状だった。

なんというか、年賀状が来るのが終わってしまったらそれこそ我が家はともかく、他の人のつながりが絶たれてしまい、ある意味で孤独死のようなことが起きてしまうのではないか、と思ったものだ。別の意味では出した相手から次々とすでに他界したので、という連絡があったりとか、喪中の連絡があったりとかが辛かったのかもしれない。そういった考え方は、その立場に近づいてみないとわからないことなのだろう。

最近でこそそれこそ物理的には疎遠な人とも、SNSなどでいろいろと近況を知ることができたり、自分としても、うざいくらいに近況を配信しているので、そういったことに対しての考え方がどう変わっていくのか、今の発信でいいのか、などを考える機会となった。

昨日

実家の岡山に戻っていた大学の同期が亡くなったとの報せ。

つい一日前まで、Twitterで他愛もないことを含めて書き込んでいたその1日後に、弟さんがTwitterのアカウントにその旨を書き込んでいたこともあり、これが「本当に信じられない」っていう状態なのか、としばらく放心してしまった。

近辺の書き込みから病気だったのか、まさか自殺か、この年齢なら事故か。そうであってほしいともそうでもないともいう複雑な思いで昨日を過ごした。

この時に強く感じたのは「彼が病気であったのかもしれない」なんてことも含めて、自分は何一つ知らなかった、もし自殺なのだとしても、彼が何かに悩んでいたのかもしれない、自分が何か助けられたのかもしれないのに、という思いだけがこみ上げてきて、特に遠方となってしまったことを含めて疎遠になってしまっていたことを後悔すること共に、友人としての資格?みたいなものに対する自責の念ばかり。

死に対して驚くのが正しい(?)かどうかもよくわからなくなった。例えば祖父の死ならそれは驚かないものなのだろうか。日頃から不摂生している人物であればガンなどで亡くなっても「まあそうだよね」となるものなのか。そういった面でも自分は死に対してまったく対面していない、と思いました。

今日死ぬ確率

奇しくも去年、今日死ぬ確率(http://dit.monoroch.net/)というのを教えていただき、その確率は宝くじで一等が当選するよりよほど高いのだ、という話を聞いた。(今回の彼でいえば43万分の1の確率である)

その文脈では、こんなにも高い確率で死亡する確率があるのだから、日々をムダに生きないようにしよう、みたいな話であり、まさかこのような形で再度強く意識することになるとは、思いもしなかった。

今言えることは

自分の場合今日死ぬ確率は60万分の1のようだ。
今日を大事に生きよう。

友人のご冥福をお祈りいたします。

また、皆様の生と死についての考え方などもしお聞かせいただければ嬉しいです。